2013/08/20

深沢七郎『庶民烈伝』を読んで

どうも脚長おじちゃまです。
今回は、深沢七郎の『庶民烈伝』を読んで禅について思う所があったので、
少し真面目に一寸個人的な話も含めて、長々書き連ねていきます。

深沢著の内容は、読書レポートではないので、申し上げません。
『楢山節考』で高名ですので、是非読んでみてください。


『庶民烈伝その五 べえべえぶし』に「うごくだんべえ 虫だんべえ」
という一節が出てきます。
動くとは働く、虫のように無心に働く、という意味だそうです。
だんべえとは、何も解説していないのですが、
恐らく「~だべ」みたいな訛った言い方なのでしょう。

禅宗では作務という労働をする時間があり、これを非常に大事にします。
「一日作(な)さざれば、一日食らわず」と戒められている位です。
そして、坐禅をするにもそうなのですが、三昧といって(読書ざんまいのそれです)、
ひたすら何も考えず、余計な念を入れず、それをすることだけに成り切る、
雑巾がけなら本当にそのことだけに集中する、そういった境地を目指します。
だから無心という言葉もよく使われます。
ただ、無心といっても、その行為に成り切る、集中するという段階すらも超えて、
花が開いて虫を呼ぶように、そうしているのが自然にならなくてはいけない、
こういう一生懸命さだと思います。
難しいですね。

というわけで、上記の言葉が出た時、すっかり禅の考え方に慣れた私は、
そうか働くとはただ動くことなんだ、これは働く尊さを説こうとしているのだ、と考えました。
併し続けて読むと
「それは働くことをほめているのではなく、ただ働くだけで頭を使わない働き―(略)―
ただうごいているだけだという、働いても働きの悪さを言う」 なんとも悲しい言われようです。
この部分に差し掛かり、私の禅に対する姿勢の違和感・疑問が瓦解しました。
どうやら私は「うごくだんべえ 虫だんべえ」を悪い意味でしか捉えられない人間のようです。
無論、禅的な立場を否定するわけでなく、私自身が、
素直に良い意味として受け入れられないということです。
因みに、こういった話でよく出る「愚直」という文言、私はこれが大嫌いです。
辞書にははっきり悪い意味合いで載っています。
まっすぐならそうと、ひたむきならそうと、別の言い方をしろと申し上げたいです。

この「うごく~」はある百姓の唄ったものとして出てきます。
この著書では、百姓の生活は仕事(農業)が上手くいこうがいきまいが、
収入は増えない、他の収入も見込めない、希望の無いものだ、としてあります。
すると、百姓達はその「愚直」な百姓を嘲笑って唄っているのでしょうが、
結局は、自分達も知恵もなく、同じような生活水準に陥っている、
だけれども真面目にやっているあいつだって結局はあの程度だと、
必死に自分を保つために貶している、そういう人達が浮かんできます。
私はこのとき、人を馬鹿にしてはいけない、と考えるのではなく、
自分はそんな聖人君子にはなれない、浅ましい方の人間だろうなと、
そして、それが人間じゃないかと思うわけです。

私が坐禅をやってみているのも、こうした自分の考えとは全く異なるものに
触れてみようとしているのかもしれません。
ただ、やっぱり自分とは違う道だなと、『庶民烈伝』ではっきりした次第であります。
そして、何故こういう話を持ち出しているかといいますと、
この度の8月の摂心会で初関を許された私は、正式に人間禅という団体に、
入門するか否かを問われ、否と返事をいたしました。
その理由は、曖昧な答えしかできず、そこまでやる気がないからで通したのですが、
結局は、こういうことだったのだと合点がいったのです。
こう書くと、一年二年でわかった気になるな、考えても仕方ない、兎も角やってみろ、
というお言葉を頂きましょうが、何故考えても駄目なのか考えよう、という人間でして。
確かにそこで答えは得られないことが殆どではありますが、所詮は人間、
わからないことはわからない、とも割り切っております。

そう、私は、所詮は人間、この立場を表明いたしたい。
「衆生本来仏なり」これもよくわかりません。
虫けら・畜生と人間は同じなのか、修業もしてなさそうなくせして、
だとしたら何故人間は修業しなければならないのか、
キリスト教みたいに人間には原罪か何かがあるのか、
こんなこと考える方が楽しいのですよ。
大体、仏だからって何だってンだ、ですよ。
本当に私は初関を通ったのでしょうか?

とある知人は、坐禅のサークルには入ったものの、本格的な修業はしないと、
それは、坐禅にそこまで求めていない、必要ないからだそうです。
一方で、とある名代のお寺の副住職様とお話しさせていただいた時、
自分は寺の出自ではないが、どうしても進退極って、禅門にはいる道しかなかった、
そうすることでしか納得せざるを得なかった、というようなこともお聞きしました。
畢竟するに、私はそこまでの段階には至ってないですし、またそうならないでしょう。
生きていりゃ良いのですよ。

こんなこと何故五葉会のブログに書いているか。
私自身上のような立ち位置を良いとは思っていません。
ただ、「何となく生きる」とはこういうことかなと考えて、それを肯定したいわけではない、
でも決然と否定して生きていくこともできやしない、のです。
先日、東京一等地に会社を持つ社長様で、当会OBとお会いしてきて、
自分のしたいことは勿論、しなければならないこと(その方の言葉を借りれば「ミッション」)、
も自覚していかなければならない、というお話がありました(と受け取りました)。
その通りだと理解はできるものの、本当に自分の心に届いて、じゃあそうしよう、
とはならないのです。
だから、他人任せになりますが、否定してもらいたいのですね。
そうじゃないんだと、禅はこうだと、誰かしらでもご高見を賜りたいのです。
四の五の言わず坐れと、言われましてもね、それが出来ないから困っているわけでして。
と、わけのわからないことをごちゃごちゃ捲し立ててすっきりしたわけでございます。
ひょっとしたら、坐禅をしている時よりか、三昧状態に入っているかもしれません。

そして、『庶民烈伝』の「上高井戸のダンナ」に
「庶民ですねー」と言われるのでしょう。


文:脚長