2013/08/26

入門することに関して

脚長連載、本日も真面目な話をしましょう。

後に述べる別の宗教も含め、関わりを持って三年足らずの若輩者が、
これから申し上げることです。
誤りがございましたら、是非訂正をお願い申し上げたく存じます。

人は、何かを為そうと決意する時、以下の三つの立脚点が考えられます。

①特に立脚点などなく、砕けて申せば、「勢い」みたいなものでしょうか。
兎に角、以下二点でない場合の時の、「その他」扱いです。

②次の③ができない場合に至る、「他人を信じる」です。

③「自分を信じる」です。

禅宗はつくづく、③の自分を信じる宗教だと思います。
禅宗の最大の眼目とは、「己事究明」即ち、本当の自分とは何か、です。
対して、
キリスト教は、「信仰」即ちイエス・キリスト…を信じること②が、その根底にあります。
…としたのは、キリスト教という範囲が広すぎて、ぼかす必要があると思ったからです。
宗教という言葉は、religionの訳語として、キリスト教の為に広まったような言葉ですから、
仏教国家たる日本人に、信仰もとい、所謂「宗教」意識が低くて当然であります。
仏教は、そういう「宗教」を超えたところにある、別である、というのはよく耳にいたしました。
超えたという表現はよくわかりませんが、もともとキリスト教を指す、
詰り信仰を意味する「宗教」と仏教含める包括的な意味の宗教が異なるのは、明らかです。
どっちが本当のというのではなく、日本人は無宗教ではない話になります。
ただ、仏教というのもまた広すぎて、宗派によっては、他力を信じる教義もありますので、
キリスト教にしましても、何でも一概には申せないものでありますが。

そこで、本題です。
こうして坐禅をしていますと、お寺に入ったりして、本格的に修行するか否かを、
考えたりするわけで、前回の記事もそれに繋がる話だったわけです。
畢竟、やるかやらないかの話なのですが、私は考えてしまうのです。
まず③、自分を信じている人間が禅門に入るでしょうか?
自分だけしか信じないのは、傲慢だとか何とか、そういうお諭しをいただきましょうが、
善し悪しの段でなく、自分を信じ切れる人間が果たしてどうか、という話です。
そして②、これも前述してきた禅宗の宗義からしてどうかと思います。

というわけで、信じる信じないではなく、やっぱり①、やるかやらないかなんですよね。

こういうことは、一人で悶々とするよりかは、実際にその筋の方にお聞きするべきなのですが、
書いてみますと、言いたいことも整理されますし、折角ですので、
早稲田の済蔭団様を見習って、とも考えて、ブログの肥やしとして、記事に挙げました。
お話し好きでこれだけ書いているのですから、説得力はありませんが、嫌なものですよ。
何しろ私は、いつも自分があっているとは思っておりません。
そして間違ったものがないか、自制・省察しながら発言などをいたします。
ですから、ブログとして世界中に公言するのは、ひどく憚られます。
そして、秘密(にしたい)主義でもあります。
匿名とは申せ、公式な立場として表明しているわけですから、恥ずかしいとはこの上なしです。

以上になります。
そろそろ、恥ずかしいことはやめて、昔の脚長連載に戻りますかね。

文:脚長